ビル・エヴァンス「One for Helen」をスペクトル・ピッチ解析|Town Hall(1966)とMontreux(1968)の違い

耳で感じた違いを、数字で確かめる

ビル・エヴァンスのオリジナル曲「One for Helen」は、マネージャーだったヘレン・キーンに捧げられた曲です。この曲を、1966年のTown Hallと1968年のMontreuxの演奏で聴き比べると、まったく違う曲のように聴こえました。

  • Town Hall盤: ピアノがシンプルなタッチで、静かに沈んでいく。
  • Montreux盤: テンションノートを随所に入れたように聴こえる。音程も、Town Hallと比べて少し外れたように感じる。

これは私の耳の印象です。この印象が、数字でどこまで裏づけられるのか。2つの音源のFLACを解析して確かめました。

比較した音源

比べたのは、次の2つです。

Town HallMontreux
演奏1966年2月21日、タウンホール(ニューヨーク)1968年6月15日、モントルー・カジノ(スイス)
メンバービル・エヴァンス、チャック・イスラエルズ、アーノルド・ワイズビル・エヴァンス、エディ・ゴメス、ジャック・デジョネット
使った盤『At Town Hall』UHQCD盤のボーナストラック(同じ公演の演奏。CD化の際に追加された3曲の一つで、「One for Helen」は未発表とされる)SACDハイブリッド盤(UCGU-7033)のCD層。オノ・セイゲンによるDSDリマスター
取り込み16bit / 44.1kHz FLAC16bit / 44.1kHz FLAC

私の装置ではSACDを再生できないので、Montreux側はCD層を聴いて、解析しています。SACD層の音ではありません。

この2枚は、マスタリングの世代も作り手も違います。したがって、以下で見る差には、「演奏の違い」と「この2枚の盤の違い」が混ざっています。

音声データ解析

  • 解析区間: Town Hallは0〜340秒、Montreuxは57〜300秒です。Montreuxのファイルには、冒頭に約1分の紹介の声があり、末尾には拍手が入っています。これらはスペクトルの平坦さで見分けて、除外しました(聴いて確認した区間ではありません)。
  • 音量とダイナミクス: ピーク、平均音量(LUFS)、DR(3秒ごとのブロックで求めた概算値)、0.4秒ごとのRMSのばらつき。
  • スペクトルとステレオ: 帯域ごとのエネルギー比、99.9%ロールオフ周波数、左右の相関。
  • ピッチ: 基準音(A=440Hz)からのずれの推定、音名ごとの分布(クロマ)。
  • テンポ: 自動推定。

ピアノ・ベース・ドラムが混ざったステレオ音源なので、個々の音を正確に取り出すことはできません。音名の分析は、大まかな傾向を見るものです。

解析結果

項目Town HallMontreux
ピーク−4.5 dBFS−0.01 dBFS
平均音量(LUFS)−20.7−18.5
DR(概算)15.8 dB18.5 dB
0.4秒RMSのばらつき(P90−P10)10.7 dB10.0 dB
左右の相関(1に近いほど中央寄り)0.920.65
2〜8kHz帯のエネルギー比0.34%1.37%
8〜16kHz帯のエネルギー比0.05%0.37%
99.9%ロールオフ周波数約5.1kHz約9.8kHz
基準音からのずれ(推定)−2セント+7セント
テンポ(推定)約99BPM約123BPM
クロマのエントロピー(最大3.58bit)3.07bit3.18bit
1拍あたりのピッチクラス数(閾値0.5)約3.0約3.1

数字から読み取れること

同じ調で演奏している

2つの音名分布(クロマ)の相関は、移調なし(シフト0)のときに最大でした。Town HallとMontreuxは、同じ調で演奏されていると推定できます。調の名前までは、この解析では決められません。

基準音の差は約9セント

基準音のずれは、Town Hallが−2セント、Montreuxが+7セントでした。差は約9セントで、半音の10分の1程度です。数値としては小さな差です。推定には数セントの誤差もあります。

テンポはMontreuxの方が速い

自動推定では、Town Hallが約99BPM、Montreuxが約123BPM。Montreuxの方が2割前後速いと推定されるが、自動推定のばらつきがあり、手動の確認はしていない。

ダイナミクスの差は、ピークの高さから来ている

DRはMontreuxの方が大きい(18.5dBと15.8dB)のですが、これはピークの高さの差が主な理由です。音量の波の大きさ(0.4秒RMSのばらつき)は、Town Hallが10.7dB、Montreuxが10.0dBで、ほぼ同程度です。「Town Hallはダイナミクスがない」とは、数字からは言えません。

高域とステレオ幅の差は、盤の差を含む

Town Hallは、高域がほとんど出ていません。99.9%ロールオフは約5.1kHzで、8〜16kHz帯のエネルギーは全体の0.05%です。左右の相関も0.92と、ほぼ中央寄りです。Montreuxは、2〜8kHz帯が約4倍、8〜16kHz帯が約7倍あり、ステレオも広い(相関0.65)。

この差が、録音の違いなのか、マスタリングの違いなのかは、2つのファイルだけでは分かりません。UHQCDとSACDハイブリッドのCD層という、別の盤どうしの比較だからです。

音名の分布は、Montreuxの方がやや分散している

Montreuxの方が、クロマのエントロピーが高い(3.18bitと3.07bit)。音名の分布が、全体に散らばっています。Town HallではGとF#の比率が高く(17.1%と14.2%)、MontreuxではA#、E、Dなどが増えています。

ただし、エントロピーの差は小さく、1拍あたりに鳴っているピッチクラス数(閾値0.5)は、2つともほぼ同じでした。この差が演奏の違いなのか、ミックスの違いなのかも、特定できません。

私の耳の印象と、数字の関係

数字の上では、基準音の差は約9セントです。小さな差です。それでも私の耳には、耳障りなほどに感じ取れました。

その印象から、私は「Montreux盤には、テンションノートが随所に入っている」と感じました。音名の分布がMontreuxの方が分散していることは、この印象と矛盾しません。ただ、それだけでは、テンションノートが入っていると言える根拠にはなりません。

感想としては、そう聴こえた、ということです。数字が裏づけたのは、「同じ調で、テンポが違い、音名の分布がやや違う」というところまでです。

この方法では測れなかったこと

  • テンションノート(9th、11th、♯11、13th、♭9、♯9、♭13)の出現頻度。 ピアノ・ベース・ドラムが混ざった音源から、信頼できる形では取り出せません。
  • ボイシングの種類(クローズド、オープン、ルートレス、四度堆積)。
  • 左手の最低音と右手の最高音。
  • 調の名前。 同じ調であることまでは分かりますが、調名は楽譜で確認する必要があります。

これらを確かめるには、採譜(たとえばHal Leonardから出ている『Bill Evans at Town Hall』の採譜集)と、音を突き合わせる必要があります。

まとめ

  • Town HallとMontreuxの「One for Helen」は、同じ調で演奏されていると推定できる。
  • 基準音の差は約9セントで、数値では小さい。ただし私の耳には、耳障りなほどに感じられた。
  • テンポは、Town Hallが約99BPM、Montreuxが約123BPM。
  • 音量の波の大きさ(0.4秒RMSのばらつき)は、Town Hallが10.7dB、Montreuxが10.0dBで、ほぼ同程度です。「Town Hallはダイナミクスがない」とは、数字からは言えません。
  • 高域とステレオ幅の差は、この2枚の盤の違いを含む。演奏の違いとは分けられない。
  • 音名の分布は、Montreuxの方がやや分散している。「テンションノートが随所に入っている」という私の印象とは矛盾しないが、これだけでは裏づけにならない。

耳で感じた違いは、数字で完全に説明できるわけではありません。それでも、数字を置くことで、どこまでが言えて、どこからが言えないのかが、はっきりしました。


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