ブルース・スプリングスティーン「明日なき暴走」をスペクトル・ピッチ解析|CD盤とハイレゾ盤の違い

最初聴いた時、なんて音質の悪い録音なんだろうと失望したことを今でも覚えています。しかしそれは私の受け止め方で、アーティストの制作の意図とは違っていました。

ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen)のアルバムおよび楽曲『明日なき暴走(Born to Run)』が、フィル・スペクター(Phil Spector)の「ウォール・オブ・サウンド(Wall of Sound)」を狙って制作されたとする根拠は、本人の発言や制作関係者の証言、および音楽史的なドキュメンタリー資料に明確に残されています。

主な根拠は以下の通りです。

1. ブルース・スプリングスティーン本人の言及

  • 「頭の中で鳴っていた音」の追求 スプリングスティーンはインタビューや自伝(『Songs』等)で、自身が1960年代のポップス(特にロネッツやクリスタルズなどのガールズグループ、フィル・スペクタープロデュース作品)やボブ・ディラン、デュアン・エディらのサウンドに強く影響を受けていたと語っています。
  • 楽曲「Born to Run」の制作にあたり、「ロイ・オービソンのように歌い、フィル・スペクターのようなプロダクション(ウォール・オブ_サウンド)の上で、ボブ・ディランのような歌詞を歌う」という明確なサウンド像をイメージして臨んだことを明かしています。

2. プロデューサー/エンジニアの証言とスタジオ作業

  • 当時のマネージャー兼プロデューサー、マイク・アペル(Mike Appel)の証言 当時のプロデューサーであったマイク・アペルはインタビュー等で、スプリングスティーンがスペクター調の壮大なスケール感をスタジオで再現しようと強くこだわっていたことを語っています。
  • 過酷なオーバーダビング(重層録音) 1974年から1975年にかけてニュージャージーの914サウンド・スタジオ等で行われたレコーディングでは、タイトル曲「Born to Run」1曲の完成だけに半年以上(約14ヶ月に及ぶ試行錯誤)が費やされました。 ギターのフレーズを何重にもレイヤー(ダビング)し、ピアノ、グロッケンシュピール(鉄琴)、多重録音されたヴォーカルのエコー、サックス、ブラスセクションなどを緻密に重ね合わせる手法は、まさにスペクターの「ウォール・オブ・サウンド」の手法そのものでした。

3. 公式ドキュメンタリー(2005年『Wings for Wheels』)

  • アルバム発売30周年を記念して制作されたドキュメンタリー映像『Wings for Wheels: The Making of Born to Run』において、スプリングスティーン本人やEストリート・バンドのメンバー(ロイ・ビタンやスティーヴ・ヴァン・ザント等)が、スタジオを「楽器」として使い、音の壁(Wall of Sound)を構築しようと悪戦苦闘した当時の制作裏話を詳細に語っています。

このように、アーティスト自身のコンセプト・目指したビジョン、実際の録音手法(多重録音・エコーの使用)、そして関係者の裏付け証言が揃っていることが明確な根拠となっています。

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Born To Run最新リマスター音源(名匠ボブ・ラドウィックとブルースのサウンドの要トビー・スコットにより、オリジナルのアナログ・マスターからリマスタリング)を使用

耳で感じた違いを、数字で確かめる

『明日なき暴走(Born to Run)』は、もともと音質に恵まれた作品ではありません。CDによっては、音が籠り、分離感も解像度も足りません。

私が持っているCDは、この1枚だけです。2005年の紙ジャケシリーズ(MHCP 723)で、オリジナル・マスター・テープ音源を使った盤です。このCDと、ボブ・ラドウィックによるリマスターのハイレゾ盤を、タイトル曲の音源データで解析しました。

結論は、買うならハイレゾ盤です。

比較した音源

CD盤ハイレゾ盤
使った盤紙ジャケット仕様(MHCP 723)、2012年1月23日再プレス盤ボブ・ラドウィックによるリマスター
音源オリジナル・マスター・テープ音源リマスター
取り込み16bit / 44.1kHz FLAC24bit / 96kHz FLAC
解析した曲5曲目「明日なき暴走」5曲目「明日なき暴走」

このCDの帯には、オリジナル・マスター・テープ音源と明記されています。ソニーの紙ジャケシリーズの紹介ページにも、音源はブルース本人の意向でオリジナル・マスター・テープを使っている、という注記があります。

CDプレス用にダビングを重ねた音源ではないので、他のCDより音が良いと言われている盤です。私はカセットからカセットへのダビングで、音が籠った経験があります。だからこの説明は、実感として納得できます。

音声データ解析

  • 解析区間: CD盤は冒頭の無音0.81秒を除いた全区間、ハイレゾ盤は全区間です。スペクトルなどの比較は、ハイレゾ盤を44.1kHzにそろえて行いました。
  • 音量とダイナミクス: ピーク、平均音量(LUFS)、DR(ピークから、3秒ブロックRMSの上位20%を引いた概算値)、0.4秒ごとのRMSのばらつき。
  • スペクトルとステレオ: 帯域ごとのエネルギー比、99.9%ロールオフ周波数、全体と帯域別の左右の相関。
  • ピッチとテンポ: 基準音(A=440Hz)からのずれ、テンポ。
  • 音名: ハーモニック成分のクロマ、1拍あたりのピッチクラス数。

解析結果

示

項目CD盤ハイレゾ盤
ピーク0.00 dBFS0.00 dBFS
平均音量(LUFS)−9.8−8.2
DR(概算)11.2 dB10.1 dB
0.4秒RMSのばらつき(P90−P10)3.4 dB3.2 dB
左右の相関(1に近いほど中央寄り)0.830.82
2〜8kHz帯のエネルギー比11.58%16.91%
8〜16kHz帯のエネルギー比0.30%0.99%
99.9%ロールオフ周波数約9.4kHz約11.3kHz
基準音からのずれ(推定)+6セント+9セント
テンポ(推定、冒頭5〜60秒)約147.0 BPM約147.2 BPM
クロマのエントロピー(最大3.58bit)3.44bit3.44bit
1拍あたりのピッチクラス数(閾値0.5)約2.4約2.4

数字から読み取れること

同じ録音の、別のマスターです。 音名分布の相関は、移調なしで最大の0.977でした。エントロピーも、1拍あたりのピッチクラス数も同じです。音楽の中身は同じで、違いはマスタリングにあります。

ハイレゾ盤の方が、音が大きい。 平均音量は1.6LU違います。DRメーター方式で測ると、CD盤が8.2、ハイレゾ盤が7.0です。音圧を上げた分だけ、ダイナミクスは小さくなっています。ただし、CD盤にはクリップがあります。フルスケール付近の連続は、CD盤が最大19サンプルで、3サンプル以上続く箇所が52か所。ハイレゾ盤は最大2サンプルで、3サンプル以上続く箇所はありません。

高域は、ハイレゾ盤が圧倒的に多い。 2〜8kHz帯は約1.5倍、8〜16kHz帯は約3.3倍です。スペクトル重心は、CD盤の787Hzに対して、ハイレゾ盤は1,073Hz。4kHz以上と1〜4kHzの比は、CD盤が−8.7dB、ハイレゾ盤が−4.3dBです。オリジナル・マスター・テープ音源のCDでも、高域はこれだけ少ないのです。

高域のステレオが、CD盤では崩れている。 全体の左右の相関はほぼ同じですが、帯域別に見ると差が出ます。

示

帯域CD盤ハイレゾ盤
40〜200Hz0.930.91
200Hz〜1kHz0.830.78
1〜4kHz0.730.72
4〜10kHz0.420.84
10〜20kHz−0.280.76

4kHz以上で、CD盤だけ左右の関係が崩れ、10kHz以上は逆位相気味です。ハイレゾ盤は、高域も中央に安定しています。私はこれを、分離感の違いの根拠として読みます。

音の立ち上がりの鋭さは、ハイレゾ盤が少し上。 2〜12kHz帯を50ミリ秒ごとに区切って、ピークとRMSの比(クレスト)を測りました。中央値は、CD盤が11.2dB、ハイレゾ盤が11.6dBで、ハイレゾ盤が約0.4dB高い。測定のばらつきの外にある差です。200Hz〜20kHzの全帯域でも、約0.4dBの差が出ました。一方、4〜10kHz帯だけで見ると、差はありません。

低域も、ハイレゾ盤の方が厚い。 60〜200Hzは+1.6dB、20〜60Hzは+2.7dBです。オクターブ別でも、C2〜B2はハイレゾ盤が約4ポイント多くなっています。

ハイレゾ盤の方が、約0.14%速い。 2音源の時間ずれは、曲の位置に比例して広がります。3秒地点で0.82秒、240秒地点で1.15秒です。音程に直すと約2.4セントで、基準音の差(3セント)と同じ程度の小さな差です。別のテープ転送から作られたマスターだと分かります。

私の耳の印象と、数字の関係

私の経験では、『明日なき暴走』のCDの多くは、音が籠っています。分離感も解像度も足りません。その中で、オリジナル・マスター・テープ音源のこのCDは、音が良いと言われています。

その最良のCDを測っても、ハイレゾ盤より高域は少なく、高域のステレオは崩れていました。最良のCDがこの状態なら、ダビングを重ねたCDは、さらに高域を失っています。カセットのダビングで私が経験したのと、同じ方向の劣化です。

この方法では測れなかったこと

  • 他のCDの数字。 手元にあるCDは、この1枚だけです。
  • ハイレゾ盤の22kHz以上の成分。 約35kHzまで確認できますが、聴こえる領域ではありません。

まとめ

  • 2つの音源は、同じ録音の別マスターです。
  • ハイレゾ盤は、高域が約1.5〜3.3倍、低域も厚く、音圧は1.6LU高い。
  • オリジナル・マスター・テープ音源のCD盤は、高域が少なく、10kHz以上のステレオが崩れ、クリップもあります。
  • 優位の理由は、96kHz/24bitという規格ではありません。ボブ・ラドウィックのリマスターの中身です。
  • ダイナミクスは、CD盤が少し大きい(DR8.2と7.0)。それでも、買うならハイレゾ盤です。

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